風呂場の椅子

そのオヤジは午後6時ごろ脱衣所から浴室に入ってきた。

手には自分の洗面器を持っている。

中にはタオル、シャンプー、ボディソープ、

シェービングフォームにT字カミソリ

それと歯磨きセットが入っていた。

浴室内には風呂屋がサービスで置いてくれている

シャンプーやボディソープもある。

だが、ここの利用者の約半数は自分のお気に入りを持ってくるのだ。

とくにシャンプーは髪の毛に直接影響があるため、各自こだわりがある。
ただやはり、こだわりの多い人ほど毛髪の量は少ない傾向にあった。

オヤジはまず入口のわきに重ねて置いてある椅子を取ろうとした。

しかし、上から強く押し付けられていたためか、

なかなか一つだけを取り上げることができない。

椅子は三個が一体となって持ち上げられるばかりなのだ。

洗面器を左手に持ち替えて、椅子の上面中央部分にある

楕円形の穴に右手の人差し指、中指、薬指を入れなおす。

親指は上面の外側で待機した。

さきほどから小指は作業には加わらない様子をみせている。

仕方なしに連れて来られた立会人のように穴には入らず

大きく伸びをしては宙を見上げているばかりだ。

オヤジは力を入れ腕を上下させるが椅子たちは、まだ三位一体である。

さらに激しく腕を上下に振るが変化はない。

「なんだよぉ、おい」と、つぶやく。

自分が言われたのかと思った年寄りが、オヤジを一瞥する。

爺は、その苦闘を理解したのか

何も言わずにタオルで身体を拭き

脱衣所へと向かった。

オヤジは洗面器を床に置き、

しゃがみこむと下に付属する二段目三段目の椅子どもを引き離しにかかる。

右手の作業員たちをそのままに新しく左手の手のひらを動員して

二段目三段目の下側側面を押さえつける。

オヤジは

そのすきに一段目の椅子を離脱させようという作戦に躍り出たのだ。

しかし椅子たちの団結は固く、びくともしない。

表面はツルツルしたプラスチック製で水にぬれているため

左手に力を入れてもうまく捉えることができない。

オヤジは両膝を床に着けその間に椅子を挟み込んだ。

左右の膝頭で両側から二段目三段目の連中を弾圧する。

左手は一段目の下から、右手のグループは上から一斉に力を入れて

分断にかかった。

取れない・・・。

オヤジは意外な抵抗(レジスタンス)に困憊したのと

足のしびれでその場に尻餅をついた。

しばし自嘲気味にニヤニヤしたかと思うと

芝居がかった深呼吸をして気を取り直し

「よしっ」と、掛け声までだして椅子たちをひっくり返す。

こんどは三段目のヤツを引き抜こうというわけだ。

両腿で一段目のヤツの胴体をがっちりと挟んだ。

それから左右の親指と人差し指の計4本で三段目の足部を摘み

上に引き上げようというのだ。

力をこめる。

もうちょっと!

くっ、

ダメだ。

取れない……。

落胆して力がぬけると、身体はよろけた。

すかさず左手は、靴下の繊維くずが散らばる汚れた床の上で

オヤジを支えてやった。

そこへ、ひとりの青年がガラス戸を開けて入ってきた。

青年はオヤジを気にせず

他の積み重ねられた山から椅子をヒョイと一つだけ持ち上げ

洗い場へと向かった。

そして、青年は何事もなくシャワーを浴びはじめたのだ。

オヤジが散々苦労を重ねた

いままでの経緯を知らずに平気な顔をしている。

「うぬぅ、なんたることだ・・・」

なぜか大時代なセリフが出てきた。

青年は風呂屋のシャンプーで豊かな頭髪を洗い始めた。

オヤジはそれを茫然として見つめている。

床のタイルが冷たく感じた。

途中まで立ちあがると急に目まいがして

再びその場に尻餅をついてしまったのだ。

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