上司が利用しにくい部下

そこは古びた住宅街の一角から崖下へと降りる階段の途中にあった。

手入れの行き届いた小奇麗な前栽のある入口が目印のカラオケスナックである。

<唄ってよし、呑んでよし♪ カラオケ寿限無>という看板の、

寿限無というロゴが昭和テイストをかもしていたが、

上司の行きつけということで、和也はいかにもなと思った。

「あ、ママ。うちの会社の――」

上司は軽く和也を紹介した。

「あら、まあ、いい男、わたしも山口さんの会社に入ろうかしら」

ママは、取ってつけたような営業スマイルであった。

上司の山口はいつもカウンターに座るのだが、きょうは和也がいる

のでテーブル席に向かった。



そのときトイレから出てきた店の女の子とぶつかりそうになる。

「ああ、社長、いらっしゃいませ」

「だからさ、社長はやめろって。あ、こっちは、おれの部下だから」

女店員は値踏みするような目つきでちょっと会釈すると、

すぐ逃げるようにカウンターの中に引っ込んだ。

和也はなんだか居心地の悪さを感じた。

郊外の住宅街ということもあるだろうが

個人の店としては内部はかなり広い。

店の一隅にはカバーの掛けられたグランドピアノがあり

店主のカラオケだけじゃない音楽好きが感じられた。

玄関から入った正面には舞台のようなステージとスポットライト、

天井からはミラーボールまで吊り下げられていて逆にセンスの良さを醸している。

この町にも、急速な高齢化の波が迫っていて、

後から入ってきたグループ客にもそれが見てとれた。

「ママ、このまえのロマネコンティまだある?」

と、上司の山口はいかにも常連ぶった言い方だったが、

和也が勘定のことを心配すると、

「おれに任せとけって・・・もし足りなくても、ここはツケが効くから」

と小声で言うとウインクまでしてみせた。

和也はすきっ腹で味の分からないワインを飲むうちに、

ひっきりなしに喋っている上司の言葉に対して少しづつ従順になってきた。

上司は何だか、「これからもよろしく頼むよ」とか、

「何か困ったことがあれば、いつでもオレに言って来いよ」とか、

「お前はなかなか見どころのあるヤツだよ」とか、

誰にでも言えるようなセリフを不自然なくらい繰り出していた。

和也は話し半分で聞いていた。

この男に対して自分は何の恩義も感じていない。

だからこそ、これからもこの上司に恩を売られて

利用されてはたまらないといった警戒心は解けるはずもなかった。

上司の凡庸なセリフがすべてバカバカしく聞こえたのは当然で、

和也をいつも余裕にさせてたのは、

会社に対して経済的に決して依存する気にならないほどの資産があることだった。

上司もさすがに、一人でしゃべりすぎたと思ったのか、

マイクとデンモクをママに持って来させて和也に歌うようすすめる。

上司がマイクを持ってステージに上がったので、

和也はこっそりと帰ろうと思い、スマートホンをのぞき込んだ。

時刻表によると次のバスが来るまで15分ほどである。

『まあ、せっかくだし、抜け出す前に1曲だけ歌っていくか』

上司が歌い終わったので、とりあえず拍手をしてから、

自分の歌を選曲をした。

――他の客の歌が先に始まったので

和也はトイレに行こうとして立ちあがったが、

どうにも目が回り歩くことができない。

このとき初めてワインに何かを入れられていたことを悟った。

『なに、たいしたことはないだろう。

上司のヤツがいくら悪名高いやり手だとしても

まさか命までは、取られることはないはずだから……』

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