買いたたきが始まった

その日の昼下がりは春らしい麗らかな日であった。

短い午睡から目ざめて、

この日差しを見たときに、自分の人生は恵まれているんだなと実感した。

身体には軽く力が入り、昨夜のパーティではいささか飲みすぎたが、

朝起きたときとは違い、

もう二日酔いといった気分は少しもなかった。

事務所のホワイトボードは、

白いレースのカーテンから漏れてくる春の陽光を反射して光ってみえた。

彼はホワイトボードに何かを書いたままにしたり

磁石でメモ用紙を貼ったりするのが許せなかった。

『いつでも新しいアイデアをこの白い板に書ける』

そういう準備をしておきたかった。



そこに当たっている四月の日差しを見て、

おれの未来は明るいのだという予感は確信へと変わっていった。

彼はバランスボールを蹴飛ばして服を脱いだ。

シャワーを浴びて、ノートパソコンをカバンに入れる。

少し早めに着いたので、会社の裏側にある夜間通用口の前で時間をつぶす。

そのとき彼は感情移入して自分が辞職したい気持ちになってしまった。

社員たちがぞろぞろ出て来る。

かなりくたびれている者、死にそうな表情の者もいる。

「やっぱり、きょうは出直そうかな……」

社長はなかなか姿を現さなかった。

立ちあがって応接室をぐるぐる歩きまわりながら、

タバコくさい空気が嫌で胸が悪くなった。

――おれはたしかに仕事をもらう立場だが、

それにしても社長の気まぐれには、いつも辟易させられるのだ。

土壇場になって、また競合他社の連中に発注を

変更されてしまうのではないかと気が気ではなかった。

「じつは、この前の見積りなんだけどね、

ちょっと、高いんじゃないかって意見があって」

「それは、F部長がおっしゃったんですか?

しかし、いつもと同じ金額ですけどねえ……」

社長は経緯を単刀直入に話し出した。

おれは自分の昔からの取引先が、

今になって、こんなに安く買いたたいてくるとは思わなかった。

どことなく、きょうの社長がそっけなかったのはそのせいか。

おれが抱えている取引先企業は、ざっと思い出すだけでも、

ほとんどがまともな企業であり、

たとえ支払いが滞ることがあっても、あまり被害額が大きくなかったこともあって、

おれはいつの間にか自分に、優れたリスクマネジメントの

手腕がそなわっているかのように勘違いしていたのかもしれなかった。

「あのね、ほかのところは……もっと安くやってくれるんだよね」

「まあ、安いのには訳があると思いますよ。無理をしてれば、

その品質が保たれるということはないですから」

「なに、ダメになったらまた次を探すさ」と社長は、

おまえの代わりなら、いくらでもいるんだと言わんばかりに、

火をつけたばかりのタバコをガラス製の大きな灰皿に乱暴に押し付けると、

すぐ新しいタバコに火をつけて煙を豪快に吐き出した。

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