マイセンの茶渋

宮嶋紘一(67歳)は持ち家の庭付き一戸建てに一人暮らしだった。

小さな商社の総務部に勤めていたが60歳で定年退職し

そのまま同じ部署に再雇用され嘱託として65歳まで仕事を続けた。

無職となってからは悠々自適とまではいえないにしても、

勤め人時代からすれば断然、

わずらわしい人間関係の少ない生活をおくっている。

妻は去年亡くなった。

はじめは炊事や洗濯など、まごついたが

慣れればどうということはない。

紘一の一日は規則正しかった。

毎朝6時起床、自然に目が覚めてしまう。

起きてからしばらくは布団のなかで「 きょうは何をしようか 」などと考えている。

考えたところで、いつも同じような行動パターンなのだが、

予定だけは綿密に計画するのが紘一のその日ひとつ目の日課であった。

朝刊を隅から隅まで隈なく読んでから、朝食の準備にとりかかる。

もっぱら朝は食パンである。

トースターで焼いてからマーガリンとジャムを塗る。

マーガリンのトランス脂肪酸が身体に悪いとの話を聞いて

一頃、バターに替えた時期もあった。

しかし、バターはバターで

動物性脂肪の取り過ぎになると医者からの指摘を受けやめた。

やめた理由は他にもあった。

バターは冷えていると固くてトーストに塗りにくいのと

マーガリンに比べて値段が高いことだ。

それぞれ食べてみると風味は確かに違うが、

慣れてしまえば紘一としてはどちらでもよかった。

マーガリンを容器からバターナイフで豪快にそぎ取り

焦げ目の付いた焼き立てアツアツのトーストの両面に、

二度三度と隅から隅まで隈なく塗りたくる。

大事なのは融けたマーガリンがトーストの断面中心に達するまで手早く作業すること。

この作業中に紘一はヤカンの湯が沸騰を続けていたとしても

火を止めに行くことはない。

融けたマーガリンを充分に吸いこんだトーストはズッシリと重たい。

そこへ、ティースプーンに持ち替えさらにジャムを塗るのだが

紘一の最近のお気に入りはブルーベリージャムである。

ブルーベリーに含まれるアントシアニンが視力回復に良いと聞き

こだわりもなく食べ続けていたイチゴジャムから切り替えたのだ。

紘一の世代だと子供のころは、ジャムといえばイチゴジャムしかなかった。

いまのところ紘一の目はふつう程度の老眼でさほど悪くはないのだが、

転ばぬ先の杖なのか

どうせ食べるなら目に良い方にしようとの考えである。

冷蔵庫から100%濃縮還元のオレンジジュースと低脂肪牛乳を

グラスに一杯づつ用意してから、

それだけではなく沸かしておいたヤカンの湯で紅茶も淹れる。

ティーカップは、妻が買ってきて大切にしていたアンティークのマイセン。

出し惜しみして滅多に使わなかったので、

紘一は妻が亡くなってから

食器棚の奥にしまわれていたそれを初めて見つけた。

陶器のことに疎い紘一は、マイセンであること、

しかもそれが貴重なアンティーク品であることも露知らず無造作に普段使いをしている。

ソーサーはない。

あろうことか冷奴やキュウリのお新香、キムチ、イカの塩辛、

焼きタラコや昆布の佃煮などをのせる小皿として使っていたが、

洗い物をする時に割ってしまい、そのまま捨ててしまったのだ。

残ったティーカップのほうも、

すでに飲み口には欠けができており

茶渋だらけとなった花柄模様はドライフラワーのようである。

これでは天下のマイセンとは一見してわからないだろう。

一般にマイセンは茶渋が付きにくいと定評だが、

現に宮嶋家のマイセンは茶渋だらけなのだ。

ニセモノということはなさそうだが、

おそらく紘一が濃い紅茶やコーヒーを注いだまま次の日まで放置したり

単純に洗いが足りないことが原因なのだろう。

じっさい、ほかの食器たちにもかなりの着色汚れが付いている。

漂白剤でつけ置き洗いすれば簡単に落ちるはずだが

紘一の頭にそれは思い浮かばない。

はなから汚れ自体ぜんぜん気にしていないのだ。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする