舞台はいつもの銭湯です。
建物のそとにある通路と前栽をしきっている石につまづいて
渡部和夫さん(78歳)は軽く前のめりに転んで両手をつきました。
「いててて。。。」
「おい大丈夫かよ」
後から来た長谷川茂さん(75歳)が身軽なあしどりで近づいてきました。
「ああ、だいじょうぶだいじょうぶ」
「そうか、あれっ、ひさしぶりじゃない」
おたがい名前や素性は知りませんが、この銭湯の顔なじみです。
「寒くってさ、もう風呂屋にくるのも億劫になっちゃって」
「まー、自分ん家の風呂に入りゃ・・・」
茂さんがつき添うようにして、ふたりは店内に入り
フロントでアルバイトのお兄さんに入浴券と下駄箱のカギををわたします。
引き換えにロッカーのカギをうけとりながら脱衣所に行くあいだも
「いやいや! もうね服を脱ぐのも面倒くさくって、だって寒いじゃない」
「寒いのはわかるけどさ、どんくらい入ってないの? 」
「んーと、そうだな去年の暮からだから・・・」
「へぇ、だいぶ入ってねぇじゃねぇか」
遠くからでしたが、見たところ和夫さんは不潔な印象はなかったです。
「いいんだよ、こういう時期はね、汗もかかないしさ」
「そうだな昔の人はみんな入らなかったもんな」
茂さんはうれしそうに同意してから得意そうに言いました。
「一生のうち一回だけ産湯に浸かるくらいだったって」
「昔って、そりゃずいぶん昔じゃねぇのか、原始時代とかか? モンゴルの遊牧民みたいだな」
「いや、そんな昔じゃなくてさ。明治時代のころまでじゃねーかな」
「明治時代か・・・そういやさ、森鴎外は風呂にぜんぜん入らなかったらしいな」
「モリオーガイ? なんだよそりゃ」
「小説家だよ……。おまえさん、本読まねぇだろ。おれも、あんまり読まないけどさ」
「なに言ってんだよ! おれは本読むよ。小説なら、そうだな、西村京太郎とか」
「・・・西村って、そうか、おまえさんなら、
まぁ、京太郎だけじゃなくて、寿行も読んでたりしてな。はっはっは」
「ジュコー? ジュコーってなんだい? おれぁ知らねーぞ! 」
「あれだ、西村寿行だよ」
「それ面白いか? 」
「どうだろなぁ・・・」
「やっぱりね、黄門様は・・あれ誰だっけな? なんだっけ。えーと
名前が出てこない」
「西村晃!」
「ちゃうちゃう、それじゃなくて、一番はじめの」
「東野英次郎か」
「そうそう、東野英次郎で決まりだろ」
「初代か。二代目の西村晃もいいけどな」
「あ、そういやぁ西村知美ってどうしてる? 」
「どうしてるって言われてもな、いわれてみりゃ最近テレビで見かけないな」
浴室に移動してからもふたりの会話はとりとめがなかったです。
「でな、森鴎外は風呂が嫌いだったわけだよ」
「そうかい」
「銭湯は不潔だってんで、一度も風呂に入らなかったんだとよ」
「まあ無理もねぇだろ、昔の風呂屋は汚そうだからな」
「そんで家族が見るに見かねて自宅に風呂を作った・・・」
「そんで、どうした?」
「でも結局、一度も入らなかったんだと」
「そうかぁ、で、そんとき、森喜朗はどうだったの?」
「え?」