ランニングマシンと散歩が良いという老人

いつもの銭湯でのこと、

となりの洗い場に座った知らないご老体が、

「ぼくはね、健康のためにはね、毎日散歩は欠かさないんだよね」と話しかけてきた。

おれは、また話が長くなりそうな爺さんが来たなと思ったのだが、

表情などから、とくに害になるような人物ではないと判断できたため、

話を珍しく聞いてみようという気になった。

「そうですか、散歩はいいですよね、手軽で・・・なにより、お金がかからないのがいい」

おれは、そんなようなことを言って話を合わせた。

ご老体は、うなづくと目を輝かせた。それは、ある種の期待に満ちた

欲求にあふれた臭気を放っていたので、おれはいくぶん警戒した。

ふだん人に話を聞いてもらえない孤独な人間は、聞く人をみつけると

まとわりつくからだ。

おれは、ややそっけなさを装うため、「まあ、お湯につかりながらでも・・・」と

ご老体を湯舟へと促した。おれが先にサッと立ちあがると、ご老体は

無言でおれを見上げた、おれは無視するように背を向けて湯舟へと歩き、

頭にタオルをのせながら湯につかった。

たったこれだけの動作をしただけで、

ご老体が、湯に入って来ようと来まいと、もうおれにはどうでもいいことになってしまった。

あごが湯の表面に着くくらい深く、身体を沈めた。

ご老体はというと、椅子に腰をかけたまま身体をひねり、こちらを見ている。

おれとも視線が合ったが、『おれは湯を堪能しているんだ』といった演出で、

目を閉じた・・・

「おお、熱いねここの風呂屋は」ご老体は、気配もなくおれのとなりに出現した。

へんだな、目を閉じて、ほんの二三秒しかたっていないはずだが。

目の輝きが妖しかった。なにか少年のような純粋さが潜んでいるのだが、

白目は黄色く濁って――老化、いかにも年寄り臭い経年変化を思せた。

「歩くのはいいですよ」年寄りは、話をつづけようとした。

語り口は丁寧な印象で、品の良さも感じる。

かつてはいったいなんの仕事をしていたのか、見当もつかない感じだったが、

嫌な気分にはならなかった。

「それと、おっしゃったように、金がかからないのがいい・・・」

「ええ、世の中には、お金を払ってスポーツジムに行く人もいますからね」

おれは、とくにそれをする必要はなかったが、

タオルで顔を拭いながら何の変哲もない相槌を打った。

「わたしもジムに、行ってたことがあったんですけどね……たとえば、

ランニングマシンには、ランニングマシンならではの良さというものがあるんですよ」

「・・・ほう、そういうものですかね――」

「あれはですね、テレビを見ながら走ることができるのが、いいんですよ」

「テレビねえ・・・」

「そう、テレビです」

といった具合に、年寄りにありがちなとりとめのない話に終始して、

きょうのおれの入浴は幕を閉じたのだった。

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